デジタルとアナログ:情報の保存と有限性について

先日、NHKのニュースで「ビデオテープの映像をいかに残すか」について取り上げていました。ビデオテープの再生装置がサポート終了し、見ることができないテープが増えています。ユネスコによれば、2025年までにデジタル化しないと永遠に失われる可能性があり、その中には私たちの歴史や文化が刻まれているものも多いでしょう。ただ、デジタル化にはコストなどの問題があり、破棄されているテープもたくさんあるとのこと。

デジタル化すれば映像を保存することができますが、デジタル化された映像データは高度に圧縮され、デジタル機器がなければ中身を見ることはできません。保存はされていても、利用できなければ意味がないのです。一方で、「アナログ」である紙に書かれた文字や絵は、1000年以上たっても、そのものが残ってさえいれば何の機器も使わずに読み取ることができます。

ここで、ある小説の一節が脳裏に浮かびます。それによれば、保存媒体によって情報の保存期間は大きく異なり、デジタルデータも紙も、当然ながら永遠ではないということです。今や珍しいオーディオCDでも、プレイヤーがなければ再生できません。それに対し、円盤に音の波形がそのまま刻まれているLPレコードは比較的簡単な装置で再生でき、保存性が高いかもしれません。

思えば映画などの作品は、紙芝居とLPレコードに記録した方が良いのかもしれません。見たり聞いたり話したりした「情報」はその場で消えてしまいますが、書いたり撮影したりすることで記録として残ります。話したことが残らないのは当然ですが、いったん記録すると、それを残す/捨てるという判断が必要になり、性質ががらりと変わるのです。

そして今、YouTubeには、膨大な映像が保存されています。これらは果たしていつまで「残る」のでしょうか。いかなる企業も永遠ではないし、ストレージも無限ではない。何らかの意図しない要因で失われない限り、いずれ、YouTubeの映像データを処分、もしくは移管せざるをえない日が来るはずです。その引き受け手はいるのでしょうか。

また、YouTubeには、映像をいくらでも無料でアップロードできます。この「無料」というのはなかなか恐しいことです。長時間ゲームで遊んでいる映像を、特に意味も意図もなく保存できてしまいます。無限に保存できるように錯覚してしまいかねません。せめて、少しでもいいからアップロード容量や時間に対して課金するのが健全なのではないでしょうか。

環境も、資源も、人生もそうですが、「有限なのは知っているけど、事実上無限」と思っていたものの有限性が突き付けられた時、何かが起こります。そんなことを考えながら、こうして自分の思考をデジタルデータ化しています。これもいつかは消えてしまうかもしれませんが、その時が来るまでの間、この思考が何かの役に立てばそれでいいと思っています。